東大鳥川西の俣沢(亡き大貫英二に捧ぐ)

 
[報告者] 阿部秀雄
メンバー:小鷹 哲 ・渡辺 肇 ・阿部秀雄


 
 出羽の月山は信仰の山である。
 かつて、  そして今も修験の者達が山々を駆けめぐる。  人々の祈願と救済、 それらに応える法力を得んとして、 彼らは苦行を耐える。

 その横腹を貫通するトンネルを突っ走りながら、 渡辺肇と小鷹哲、 そして私の 3 人が、 朝の明ける前に辿り着こうとしていたのは東大鳥川西の俣へのルートの一つの鳥羽口である。
 3 年前の夏、 瀬畑雄三と今は亡き大貫英二、 そして私は峻険な東大鳥川の本流を遡行せずに、 山越えでその難関を避け、 源流に踏み入った。  そのルートを再び辿ってみようとやってきた。

 トンネルを抜けるといよいよ気が張ってきて、 記憶を呼び戻そうと錆付いた頭脳がきしみはじめた。  はてさて同じ行路を行くことができるだろうか。  あの時は、付いていくのに精一杯で途中の景色を見て位置を確かめる余裕などなかった。
 鶴岡へ向かう国道を折れて、 名も無き道を辿る。  まずキツネが出迎えた。  その道は朝日スーパー林道と変わり、 フクロウの出迎えがあって幸先良し、 と思うまもなく車止めへ向かう道を失念した。

 明るくなって、 ようやく目的地を発見。  車止めから歩きはじめて、 渡渉点を早計。  ゼンマイ道にて 1 メーターほど登ってトラバース、 を上がり過ぎ。  昼飯前にシャリばて。  本流から脇の沢へと入る。  中型ながら群れ泳ぐイワナを蹴散らしながら沢を詰める。  しかし沢が二股になる中間の尾根を登らなければならないのだが、 その目標の地点までの記憶がまっ白。  二人に慰めめられながら、 ようやく沢筋から尾根筋への登攀点へ到着。

 それから尾根をたどってコルまでの藪こぎの道のりが遥か遠い。 喉の渇きにわずかに流れる濁り水を少し汲んでみたものの、 それ無しでは到底山越えなどできない程の道行きが延々と続いた。 クマの糞をまたぎ、 小灌木をなぎ倒し、 大貫が指先で縫い針のような葉をほぐしながら、  5 本の葉っぱがあるから五葉松、  と教えてくれた大きな松の木など、  見覚えのある所にホッとしながら、  ようやく日暮れ前に辿り着いた尾根で、  最後の  100  メーター近い下降点がもうわからない。


 後から思い返せば、 最後のコルで上流に向かわず、 幾分下流へ進路をとれば前回と同じ瀬畑がいうところの「 75 度くらいの傾斜がずっと下まであって、 段々になっているからよう、 カンタンにおりられっぜ。」というとびきりうまい具合の場所があったはずであった。


 だが僕たちはもう私の朦朧もうろうとした記憶に依存する余裕はなかった。 既に陽は谷底まで照らしてはいない。 あたりの尾根をもやが早足に流れていた。 地図を頼りに、 大きな枝沢に下降して足下がまだ明るいうちに、 本流へ降り立った。 まだ続きがある。 テン場が思い出せない。 怪しげな河原の砂地を宿とした。 一雨くれば”前門の大水、後門の落”と憂いに事欠かない絶品の一画である。 ブルーシートが張られ、 薪を集めるためにはもうヘッドランプが必要となった。 ここまで 9 時間半の道のりであった。

 小鷹が腕によりをかけて選んだ、 レトルトのハヤシがとびっきりのうまさ、 絶品の一皿であった。
 夜空の星を探しながら、 ラジオの天気予報を聞こうとするが、 どしゃぶりのような雑音しか入らない。 いつのまにか我々は、 金や法律が支配する世界から、 キツネやフクロウやクマたちと同じ掟を共有する世界に生きていることに気付かされた。


 さてこの釣行では、 何度か厄介なことになりそうになる手前で、 事が悪い方へ転ばずに済んだことが何度かあった。
 中日なかびは、 出立前の天気予報では雨とのことだったが、 昼は穏やかに晴れた。 一通り釣り終わって、 ようやくテン場に近づくにつれ、 雲行きが怪しくなってきた。 少し上流の高台にあるテン場に移動することを決め、 荷物を運び上げ始めた頃から本降りになった。 完了の頃には雷鳴が轟き、 濁流が溢れるように流れ始めていた。 帰りがいくらか遅ければ、 足下からの水と頭上からの岩におびえて、 あのテン場で立ち往生となりかねなかった。
 そんな幾ばくかの幸運を感じたとき、僕たちは「大貫さんのおかげだぜ。」と言って笑った。
 飯と酒の時間には大貫の写真を飾った。 ついでに持参した、 奴の大好きなとびっきり助平で大股開きで隠すものとてない写真を幾ばか添えて。


 日本の神の原型には死者がある。 祖霊信仰である。 その魂はそらに登るが、 まず低い山の頂へ登り、 年月を経て高い山に移り、 やがて信仰厚き山へと集まる。
 柳田国男は祖霊の神とヤマの神、 田の神は同根であると喝破かっぱしたが、 大貫よ、米作りが自慢の君に 、まことにあい相応しい神の有り様ではないか。


 時折の休憩を入れながら小雨は朝まで続いたが、 何故か少しの時間青空がのぞいた。
 素早くブルーシートを乾かし、 痕跡を最小限につまみあげ、 西の俣をあとにした。
 6 時間半の行軍を済ませ、 もう後も見ずに車を走らせたが、 最初の集落で飲み物を求めて私は車を止めた。渡辺は今来た道を少し戻って何人かの男達が歓談しているところへ温泉の情報を聞き出しに向かった。
 すぐに二人を呼ぶ大きな声が響いた。
 その人の輪の中に瀬畑の顔があった。 東大鳥川西の俣沢を目指して来たという。 源流行の世界では、 どこかで知り合いと出くわすことは珍しいことではないが、 この偶然には声も出なかった。
 ひとしきり話を継ぐと、あたりはもう暗くなりはじめていた。
 立ち去りがたく、 別れを惜しみつつ車に乗り込み後ろを振り返ると、 そこに 莞爾かんじとする瀬畑の顔が浮かんで見えた。

 神、 二人ながらにしてそこに残し、 僕たちは温泉と飯と酒の誘惑に導かれ、 生活の充満する街へ向かって夕闇のなかを走り去った。

文中敬称略





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